昭和40年03月26日 朝の御理解



 折角信心をさせて頂くので御座いますから、誰にでも通用する、誰にでも分かってもらえれる、合点してもらえれる信心を頂きたいと思う。誰にでも、合点してもらえれる信心とはどういう様な信心かと。成程おかげを受けるという事。ね。ほら見てみれと、神様のおかげちゃあこういうもんぞと。成程自分もそれで合点し、また、んなら誰にでもそれを持って、おかげを持ってこれがおかげぞと言うてその、言うて聞かせてはぁ成程不思議なこっちゃあるねと。
 それで神様ちゃあそのう、御座るとじゃろうと。神様の働きとはこういうもんであろうとその例えばそのう、そういう意味合いで合点させたんではですね、これはいつも通用しませんです。おかげだけで合点させたもんでは。もうどこまでもね、やはり信心で合点させにゃいけんです。ほう不思議なこっちゃある、と例えば言うようなです、おかげでは決して誰でも合点と、本当は合点致しませんです。
 昨日福岡の渡辺先生が、お参りしてみえてから丁度私が下がる時間、過ぎまでおられました関係でお茶でもあげております時に、丁度私共の手水場の上に、久富さんが椿を一枝持ってきて一輪挿しに挿しておられる。それが古風な徳利に一輪挿してあるそれがなかなかその風情があっていいですなぁとこう、言われる。私たあの茶ばな、あの椿が好きですからいつもこうやってあの久富さんが持ってきて下さるんですよちゅう。
 勿体無いですね、しかしこれも、すぐに花が散ってしまうから。これにはね、あの花の芯に塩を一つまみ入れておくとね、花が散らない長く。と言うてその私に教えて下さるんです。ああそうですか。それでも私はね、あの、この花があの落ちるでしょっと。落ちるとその落ちておるのを時、あの眺めるんですよちゅうて。なるほどっちゅうてから(笑)言うておられました。私はそうです。椿の花が一輪挿しておる。挿しておる間は、もう眺めさせてもらう。
 本当に楽しい。それがすとすとっとこう落ちてしまう。今度は落ちておるのをまた、その風情私は事実好きなんです。塩を一つまみ入れるという事も覚えると同時にですねぇ、私はその例えば花が落ちてもです、その落ちた花びらにでも一つの風情が感じられるというか、楽しまれるというか。そういうおかげを頂いていくという事。信心が、どういうような場合でもどういうような人にでも本当に通用するというのはそういうような事と私は思うのです。もうとにかく私がおかげば頂いて見せにゃ。
 不思議な奇跡的なおかげでも頂いて見せると皆が合点をする。合点はするけれども付いちゃ来んです。不思議に。ね。ですから病気なら病気をした人にです、私は、私もこういう、そういうような病気をした時に神様にこうやっておすがりさせて頂いて椛目にお参りさせて頂いたら奇跡的にこういうおかげを受けたと。あんたも一遍お参りしなさいと言うてそのお導きをする、それ、それにはなりますけれどもね。
 それでなら誰にでも通用するかというとそりゃ、実際に病気をしておる人には通用するかもしれませんですね。何故ってその溺れる者も、は藁にも掴みたいという気持ちがあるからなんですよ。ね。だからそのう、見方考え方によってはもう実に平易な事なんです。いうなら、降っても有難い照っても有難いという気持ちを開く以外にはないです。これなら誰にでも通用するです。
 信心ちゃあ素晴らしい事だなと皆に通用するです。何故って皆にもその必ず降る事も照る事もあるからなのですよ。生きるという事だけがおかげではなくて、死ぬる事もおかげだという事が分かるという事。そこに私は御道の信心の素晴らしさというか、教祖が説いておられる信心の、いうなら普遍性とでも申しましょうか。どこの国の誰にだって通用する教えがちゃんと一筋の道になっておるという事です。
 ですからそれだけなのですけれどもならそれを実感してですたい、自分の都合良い事だけがおかげ。都合の悪い、誰が見ても悪いというような場合でもです、それをおかげと頂けれる神の信心がだから必要だという事になるでしょう。椿の花を例えば一つまみの塩を入れる事によって長持ちさせれる方法。そげんすりゃそげん不思議な事が出来るたいね。ならそれもだからおかげ。それも体得しなければならない。けれども散って落ちたそれもまた変わった風情を感じれれる信心。
 雨の降るなら雨の降るのを風情があり、お天気の日にはお天気の日でなからなければならない楽しみがあるというようにです。ね。そういう気持ちを開かせて頂くそこに私は誰にでも通用する。けれどもそれを稽古なしに頂ける事ではないという事が分かってくるから、なら私も信心の稽古をさせて頂こうかというような風におかげ頂けてくれるのじゃないかこう思うですね。
 昨日上滝さんがお参りして参りまして二十三日の御霊様の御祭に御説教頂いてまぁいろいろ感ずる所があって分からせて頂く事があった。二十四日も北野に出て来てました。今までの私の考え方が間違っておった。もう私方の母はどちらかと言うと、もう、どちらかよりも大変な悔やみ手である。ほでもう(みっしゃん?)どうするかちゅうて悔やむ。もう婆しゃんそれはいっちょん悔やむ事じゃなかじゃんのあんた、神様に御礼申し上げる事ばっかじゃんの。
 もう御前ばっかりは悔やまんけんで、その(笑)もういっちょん張り合いがなかちゅうてから悔やみなさるそうです。もう商売に行かせて頂いてもです、もうそりゃ最近の私はもーう一つでも余計売ろうといったような気持ちは一つもありません。もう五軒でも六軒でもです、もうゆっくりゆっくり歩かせてもらう。ね。してもう一軒一軒本当にそこで味わいながら私が化粧品を売りに行ってから向こうも喜んでもらい、楽しんでもらい、だからうってうらんでん良か。
 だから私のいわゆる蘇生術というかその生き方というものを話すと皆感銘して聞いて下さる。そしてやっぱり商いも、十軒も十五軒も回っとった時と同じようにまぁ、そのう、売れておるとこういうわけなんですねぇ。 けれどもね、その生き方だけではいけないという事が分かったとこう言う。ね。ただ腹を立てんと言うだけでも。けれどもその腹を立てんというものがどこまでも生き生きとした神様との交流があって。
 もう腹を立てんのじゃない、立てんで済むものでなからなければならないというような意味の事を昨日言っておりました。あんたがそこが分かるとまぁいうなら鬼に金棒よと。ね。信心しよんなさったってぶりぶり腹かきなさる人がおる。また私の周囲にいくらもおんなさるちゅうわけです。あげな事でどうして毎日日参りしておんなさるが、いわばおかしいとこう言うんです。上滝さんは。ね。けれどもそのおかしいと言われながらでも例えば、かりにそこが稽古なんですからね。
 本当の意味合いでそれがどういう事を稽古しておるかと言うと、もうその腹を立てんというのじゃなくてですね、立てんで済む、ね。よう降っても照っても有難いという心を開いていく為の稽古をしておるのであるからです、一遍にちゅうわけにはいかん。すと上滝さんは始めからもうどうでんこうでん腹は立てんという風な信条で行くわけなんです。ね。だからこれにはそのおか、その、自分自身のそのおかげといったようなものは、そのう、信心の有難さというようなものには触れられない。
 例えば腹を立ててもです、ね。ならそんなら降るたりたり照りたり自分の都合よくなった事が有難かった。都合のない時にはあ、有難くない。いわば腹を立ててもいいです。ね。けれどもそこん所に取り組まさせて頂いてですたい、はぁ自分はここで腹かいたらならんのだけれどもここではその御礼をも、申し上げなならんのだけども。御礼の出らない自分という者をぎりぎりどこから。
 そういうような御礼を申し上げなければならないのに。御礼の申し上げれる心というものがいた、頂けないかという事をです、追求してです。ね。行くうちにそのそこん所が本当に翻然として分かってくる時です、ね。いわばこれならば例えばその、相手に御前が腹かかんけん、張り合いがないといったような事ではなくて、それが本当に子供にでも親にでも交流する、通うていくようなおかげになってくるという事。ここの所をまぁ言葉を持ってするならもう、もうその大変難しいと思うんですけどね。
 降っても有り難い、照っても有り難いという気持ち。ね。椿の花が咲いておる、それも有り難い。それを、もたせる為の塩を入れるという事を、体得する事も有り難い。けれども、その椿があの、首からすとっと下に落ちてしまう。その落ちておるその風情もまた素晴らしい。と本当に、あの素晴らしいと感じなければです、はぁもう、椿の花が首から落ちたけん気色の悪か、気持ちの悪か。早よ取って除けろというのであっては、おかげじゃないという事。
 だからそれにはです、もう大変な一つの、稽古が必要であるという事が分かるでしょう。ね。まぁその事で言うならばある意味合いにおいてですたいね。座禅の一つでも組むような、稽古もいるかもしれません。ね、お茶なんかすると必ず座禅なんかもやります。ね。いわゆる生きた花だけが有難いじゃない、枯れた花もとにかく、また一つの風情があると言うて枯れた花をそのまま眺めるのが、まぁ、茶人の、おそのいわばわびといったようなものなんですねぇ。
 散っとる花弁にでも、一つの風情が感じられる為には、してみるとそのう、お茶の精神、お茶の稽古でもさせてもらわなければ、禅の一つもやってみなければ、いろいろな深い味わいとか、深い美しさとかというものは、分からないようにです、信心の例えば、私が申しております、降っても有難い、照っても有難いというような事でもです。稽古をしなければその味わいはぜ、分からない。
 けれども確かに、それが降ってなるほど、あの人は楽しみござると。咲いとる時も楽しみござるが散ってからも楽しみござるという事なら誰にでも分かるでしょうが。取り除いとらんもん。そして本当に眺めよるもんそれを。だからあげんなれたらさぞ良かろうという事なのです。問題は。ああいう気持ちになれたらさぞ良かろうと。だからこれならば通用するという事。ね。
 信心させて頂いてこげな不思議なおかげも頂けれるという事は、なるほど一時的な感動は与える事は出来る。けれどもそれを長く、ならいつまでも通用するというものには出来ないという事。そこで私達がですね、ここにどういう発心をしなければならないかと。そういう信心を頂く為にはどういう発心が必要かと。私その事を頂いておったら、昨日熊谷さんのお取次を夕べさせて頂いた。御夢を頂かれた。
 二十五円というお金。とそれと息子嫁の恵美子さんにここに黒い喪章のような物を取り替えてやって、白いそれが白いこのそのう、何か十の字になったような物と取り替えてやっておるような御夢であった。その事を私がお届けさせて頂きよったら、あの一番向こうに御三宝に白鹿と白鶴があの、お神酒のお供えになってるあれを頂くんですねぇ。親は子供の事を、祈らない、また自分の信心を頂いて欲しいと、受け継いで欲しいという願いを切に持たん者は無いのである。ね。
 ですからあちらのお嫁だって息子だって、お母さんの信心に反対はするという事はしない。そして自分でも言っておる。何かがあったら僕も必ず椛目に参るじゃろうと。椛目に熱心に信心するようになるだろうとこう、こう言うてはおる。けれども、遠いからと言ちゃあ参っちゃあ来ん。遠いって言ったって福岡から。福岡から毎日日参しておる人す、人すらある。無信心だと言うても月次祭だけ位には福岡の者は皆参って来る。
 にもかかわらず嫁も椛目に参って来ん。息子も椛目に参って来んという事がです、ね。ここん所をしっかり祈らなければいけないとこう思う。それにはやはりあの白鹿であり白鶴であるという事を頂いたんですけれどね。一つの発心がですねぇ、白鶴というのはここにしげしげと通わせて頂くという事でしょうね。ここに私が亀であんなら亀の元に本当に楽しみを持って鶴が通うて来るような信心です。
 白鹿というのはこれは、本当の意味で信心で言う馬鹿と阿呆になる事だとこう思いますいうなら降っても照っても、平気でおれれるというような信心。二十五円というのは二人とも、二重、二重の縁を持って御神縁を頂いておる。恵美子さんはあのひとの田代さんの信心を受け継いで大きくなっておる。(信夫?)さんもその、熊谷さんの信心の余徳で、今日までおかげ受けておるという。
 いわいる二重に重なった御縁を頂いておる人達だという事です。その人達が生き生きとした信心をさせて頂けれるという事はです、信心という物が今日私が申します様に、ね。いわゆる白鹿であり白鶴であり。日々信心の稽古に通わせて頂く事が楽しい。何故かと言うと降っても有難い照っても有難いという気持ちが開けていくという事が楽しみという信心になればです、子供にも嫁にも通用しないはずはないと。
 もうお参りすりゃおかげば頂くというのでは通用しないという。実際見たり聞いたりしておかげをそれを認めてもです、それだけではついては来ない、通用しないという様な意味の事を頂いたんですけれどねぇ。 どうぞ一つ今日はまぁいうならば御道の信心の一番私は高尚な信心だろうとこう思います。ね、降っても有難い照っても有難いとこう言うのである。簡単な事。
 そんなら、これは誰にでも通用すると。けれども、それには稽古が必要であるという事です。だから、そういう物を求める人があるならば必ず、ほんなら、ひとつ稽古させて頂こうというような事にもなり、また皆に認めてもらう事も出来ると。ね。椿の花が咲いておると咲いておるのも、美しいなら、それを長くもたさせる為に、ひとつ塩を入れる術も覚えさせてもらい。
 そしてそれがいよいよ、んなら首からぽっつり、その落ちてです、椿が落ちて散って、いうなら床の間なら床の間に落ちておるその風情をまた楽しませて頂けれる所の信心。もう一から十までを味わわせてもらう。有難いと感じさせて頂けれる様な信心をです、お互いが体得させて頂いたら。これなら誰にでも通用すると私は信心させてもらいます。ね。それでいてそんならばです、ね。
 それこそたまがる様なと言うか、生々しいと言うか。ね。これは信心頂いとらなければ頂く事は出来んというような、いうなら枯れ木に花の咲くようなおかげも体験しながらそういう道を体得して行けれるという事は有難い。またそういう道を体得していかなければ真実の値打ちはない。ただ奇跡から奇跡を追う信心では本当ではない。不思議な霊光と。不思議な光だけを有難がるのではなくてです。ね。
 電気なら電気の光だけを有難がるのではなくてですたい。ね。例えばこの太陽の恩恵と言うか、ね。その恩恵が本当に分からせて頂けれる信心という事。ね。そういう信心なら世界の何処の誰にでも通用する信心であり、ね。御道の信心の普遍性といったようなものはそういう所まで高められなければ御道の信心の普遍性といったような事は言えんのじゃないだろうかという風に思うのです。
   おかげ頂きました。